Sunday, May 3, 2015

論文のすすめ - 高山忠利 (日本大学医学部教授)



 良く耳にする「論文などは二の次で臨床を一生懸命すべきだ」という意見は正論である。なぜなら、外科医にとって最大の命題は、手術を成功させ患者さんに社会復帰して頂く点にあるからだ。しかし、臨床と論文とは本当に二律背反の事象であろうか?私は、外科臨床を効率良く学習する最良の方法が論文を書く作業だと考えている。10年ほど前に、外科の知識・技術の獲得に最も効率の良い手段は論文作成の作業そのものに在ると気付いた。もちろん、試験勉強と同様に論文書きは孤独な作業である。しかし、効率を求めるには常に自己犠牲が必要となる。そこで、自分自身の論文制作に関する経験を示し、第3外科教室員の参考に供したい。




1. 症例報告のすすめ
 私が論文を書く目的の第1は、臨床経験を増幅するためである。これには、症例報告を書く事が良い。
 たとえば、自分にとって初めての症例に遭遇したり初めての手術の術者になったとする。誰でも一度は教科書や論文を読んで勉強する。しかし、患者さんが退院され数カ月かすれば、習得した知識の多くが忘却の彼方となる。通常は忘れた頃に次の症例が来るので、また同じ学習をしなければならないハメに陥る。ところが、何らかの特異点を持った症例を経験し、これを症例報告として論文にまとめたとする。すると、何年たっても患者さんのプロフィールだけでなく施行した手術方法や引用した他人の論文内容まで事細かに記憶しているものなのである。それは、その症例の論文を書く作業を通して反復学習しているからであり、さらに論文という証拠が残るのでより正確な記載をするように努力するからである。症例報告を書くことで1症例の経験が何倍にも増幅される、まさに若い外科医にとって理想的な学習手段である。

2.原著論文のすすめ
 私が論文を書く目的の第2は、臨床行為を自戒するためである。これには原著論文を書く事が理想的手段である。通常の原著は、1)要旨、2)緒言、3)方法、4)結果、5)考察、6)文献から構成されている。
  1)要旨(summary)は、自分自身の成果をコンサイスにまとめる項目で、何が新知見なのか(what is new?)を主張する場である。もし、新しい主張が何も含まれていないのならば、この論文を書く意義は無い。個人的な経験であるが、大学院時代に行った腫瘍免疫の仕事を1985年に米国の Cancer Researchに投稿した事がある。レフリーのコメントは”There is no new information !”と門前払いであったが、当時は拒絶の決定が納得できなかった。ある程度の自信があったので投稿した訳であるが、数年後に原稿を読み直し彼らの理由の正当性が痛感された、一流雑誌の要求を満たすほどの新知見がなかったのであった。頭が整理されていないと、この項目をうまくは書けない。
 2)緒言(introduction)は、これまでの他人の成果を踏まえて自分の仕事の意義付けを行なう項目で、現時点では何が判っていないのか(what remains unknown ?)を鮮明にさせる場である。必然的に他人の論文を熟読し正確な知識( state-of-art )を得ようと努力するはずである。まさにこの知識が、論文を書く書かないにかかわらず、外科医として日常の手術適応や術式選択に不可欠な常識となってくる。この項目を書くことで、効率良く関連領域を自ずと学習しているのである。
  3)方法(methods)は、自分の施設の診療現況を集計する項目で、日常の診療内容(外科でいえば手術数、適応、術式など)を具体的に再確認する場である。日常のありふれた診療内容も、症例数を累積すると新たな視点が開ける事がある。
  4)結果(results)は、自分の施設の診療成果を解析する項目で、治療因子(外科でいえば手術合併症、術死、短長期予後など)のデーターをとり統計学的に検討する場である。日常の臨床的印象、たとえば門脈浸潤のある肝癌は予後が悪いようだ?肝切除の系統性は予後に影響しそうだ?等々、は意外に的を得た場合が多い。しかし、印象だけでは患者さんを含めた第三者を納得させる事はできない。自分のデーターを解析してその成果が有意なのか誤差範囲なのか示す姿勢は、やはり論文を書く書かないにかかわらず、臨床医として不可欠である。患者さんご本人への術前ムンテラとして、癌およびその進展度の告知、手術の妥当性、手術の合併症・死亡率、術後再発率、生存率など具体的な数字を挙げて説明しているが、informed consentを取るうえにも自分たちの成果を客観視すべきである。
 5)考察(discussion)は、自分の成果と他人の成績とを比較しつつ討論する項目で、自分の正当性を開陳する場である。最も大事なポイントは、『主張が客観的事実に基づいているか』『理論の組み立てに矛盾がないか』『結論が科学の発展に寄与するか』の3点である。その論文の理論構成に少しでも自己矛盾があれば、良い雑誌は決して受理してはくれない。この討論の審査員は雑誌のレフリーであり、最終的に不特定多数の読者である。考察を書く作業を通して、自分の成績が他人よりも劣っている事が判れば自戒する必要があるし、優っていれば安心して我が道を行ける。なお、日本人に多い傾向であるが他人の論文を繰り返し紹介し冗長に考察を記載するのは誤りであり、自分の主張をクリアに記載できればむしろ短いほどインパクトのある考察になる。
 6)文献(reference)は、今回の成果を導き出すのに必要であった他人の論文を列記する項目で、数多くの引用文献を羅列するのは良くない。また、恩恵を受けたほかの研究者への敬意を表す項目ともいえるので、引用した論文名やページ数に少しの誤字もあってはならない。論文を発表する意義は、他人の仕事に示唆を与え究極的には『他人の論文にどれほど引用されるか』にある。引用される事の重要性は、この引用頻度が各雑誌の権威を客観的に示すimpact factorの決定因子となっている事実からも窺える。他人に一度も引用されない論文は、業績にはなるが科学的には意味を持たない。
 以上述べたように、原著論文の構成は、ある病態や治療を学習したり診療行為そのものを評価するための格好の教材を提供しているのである。たとえば、肝癌に関する原著論文を2~3本書けば、肝癌診療の state-of-art をほぼ完璧かつ包括的に学習する事ができる。

3.論文の質
 国立がんセンターや東京大学でも、論文書きが趣味のような医者もいれば逆に全く書かない医者もいたが、多くのスタッフが勤務外時間の多くをこの作業に費やしていた。なぜなら、臨床の場で何をしたかではなく、何を記録に残したかが問われるからである。論文発表という自己主張をしなければ何もしていないと判断される。さらに、論文を評価する基準として数よりも質が重要視される。論文の質を表わす指標として、雑誌のimpact factorという数値がある。和文論文にも価値の高いものは少なくないはずだが、これを掲載する日本語雑誌でimpact factorの付くものは残念ながら存在しない。以上の理由で、2つの施設とも業績集から和文論文が削除され業績とは認識されなくなってしまった。
 サイエンスの共通語が英語であり、さらに日本の外科学が現時点では世界のトップではない以上、論文は可能な限り英語で書かなくては共通の土俵には登れない。たとえば、外科学の分野で新しい発見をしたり新しい術式を開発したとする。研究者は得られた成果が独創的であればあるほどその内容を発表して公の批判に晒す義務があるが、可能な限りimpact factorの付いた雑誌への掲載を目指さなければならない。なぜなら、そのような雑誌は原則的に、1)論文の審査システムが公明である事(peer review)、2)掲載の決定が迅速である事(quick response)、3)雑誌の発行部数が多くの人目に付き易い事(good circulation)、等の基本理念で編集されているからである。これらの編集方針は、impact factorの高い雑誌ほど高い精度で保証されている。
 たとえば、世界で初めての知見を日本では権威ある雑誌に掲載したが、数年後に全く同じ内容を他人が国際誌に発表したとする。仮に後者が前者の論文の内容を盗んだとしても、表向きそれを責める術はない。第三者は後者の英文論文を引用し前者の和文論文を無視するであろう、前者が悔しい思いをするだけである。したがって、自分で得た新知見は、どんな些細な情報でもどんな雑誌でも構わないので、英文論文にしておく意義は極めて重要である。

4.論文の書き方
 長い論文ほど、できの悪い論文である。論文は”shorter is better !”と常に考えている。タイトルも一字でも短い方が良い。新知見が無いから、冗長な言い訳を弄さなければならないのである。私の考える適切な長さの原稿とは、A4版1ページあたり250~300字として、表題1ページ、要旨1ページ、 緒言1ページ、方法2ページ、結果1ページ、考察2ページ、文献2ページ、図表3ページ、以上で合計13ページまでである。これより長い原稿は一流雑誌には通らない。
 論文を書くには先ずテーマが必要である。実は、これを見つける事自体が、論文を書き上げる作業の本当の意義である。初めは分からないから先輩に与えて頂く、その後いくつか書いてみると徐々に見えてくる。臨床をしていると必ず疑問が生じる、この適性は正しいのだろうか? この術式は適切なのだろうか?等々、まさにこれら日常の診察行為の中に埋もれている疑問が論文のネタになるのである。もし、その疑問に対する答えが教科書や他人の論文の中に見つからなければ、それが自分自身の研究テーマになるのである。
 英文論文を書く場合、先ず日本語で書いて次に英訳しようとするのは邪道である。私自身英語はうまくないし、スラスラとは今でも書けない、日本語で書いた方がはるかに楽である。最大のコツは、外人の書いた関連論文の表現を真似て、とにかく英語で書いてみる事である。何本かの論文から適当な表現を拝借してツギハギの英文を作ってみる、その行間に自分の英語をはめ込んでいく(これをモザイク法と自称している)。次に客観的な記述部分を自分のデーターに置換していき、さらに自分の主張を数10行でも折り込めれば十分である。何回かの推敲を経て、native speakerであるM.D.に英文校正してもらえば、投稿するまでには形式的には自分自身の英文論文に変身している。初期の頃は、ほとんど他人の表現を借りても、何本か書いて要領が分かってくれば、自分の英語のシェアが次第に増えてくる。ただし、このためには、やはり相応の心棒と訓練が肝要である。
 苦労して書いた論文が採用されるか否かは、また別の問題である。私が初めて受理されたのは英文論文を書き始めてから3年後である。一度論文が通ると次が通り易いのは事実で、それはある程度のコツをこの3年間のeditorとの原稿のやり取りで学習したためである。1)主旨を鮮明にする、2)本文は一行でも短く書く、3)主観をまじえない、4)図よりも表が好まれる、5)結論は断定的に書く、等々が論文を受理してもらう普遍的なコツである。外国人研究者は論文の掲載を一種の陣取り合戦(space war)と解釈している。すなわち、少しでもimpact factorの高い人気雑誌に自分の論文のためのスペースを奪取するという発想である。なお、上記のコツはあくまでも二次的なものであって、最終的には論文のpriorityの高さが採用の可否を決定する。初めての発見や新しい術式ならば、一流雑誌でも喜んでスペースをあけてくれる。

5.論文の意義
 私は、学問とは『判らないことを判ろうとする知的努力』と定義している。大学で生活する以上は、学問をすることが最低限のモラルである。では、本当に学問をしているのか?その評価と認定には、実は論文しかないのである。ただし、学位の取得や将来の昇進のために論文を書くという姿勢では決して良い論文などは書けない。そのような第二次的付加価値は黙っていても付いてくる。なお、これまでは大学院の教官は教授と定められていた。本年度から、助教授と講師にも枠が拡大されたが、その資格は『impact factorの付いた雑誌に筆頭著者として3編以上の論文を有する事』である。この基準は極めて明解であるし、一つの努力目標が設定されたのである。
 「趣味は何ですか?」と問われて、「論文書きです!」と答えている。多くの人が怪訝な顔をするが、これほど高尚な趣味はないと自賛している。国際雑誌に自分の雑誌を載せる喜びを、教室員全員に是非味わって欲しい。Top journalに採用された喜びは至上である。最近、短報ではあるが加藤がLancet に、間崎がGastroenterologyに論文を受理された、医学者垂涎の雑誌にである。この事実は、第3外科の学問的ポテンシャルは決して低くはないことを物語っているのである。これを活性化させる目的で、本年度からその年にimpact factorの最も高い雑誌に論文を載せた教職員にPaper of the Year (Takayamaユs Award:楯と金一封)を贈り長く栄誉を称え、教室の糧としたい。

 私は、臨床と論文は決して二律背反の事象ではなく、両者をこなしてこそ臨床が活力を生み、究極的には一人一人の患者さんの利益に繋がると信じている。この私見が、第3外科の教職員に何らかのpositiveな示唆を与える事ができれば幸いである。